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[学友便り] ベルギー、ルーヴァン・ラ・ヌーヴ便り

2010 年 4 月 18 日 - 1:17 AM

2009-2010 年度国際親善奨学生 ルーヴァン・カトリック大学(ベルギー)留学 村中 由美子
(派遣クラブ:D-2620 静岡東ロータリークラブ、受け入れクラブ:D-2710 ルーヴァン・ラ・ヌーヴクラブ)

私は、2009 年9月より、静岡東ロータリークラブからのご推薦を頂き、国際親善奨学生としてルーヴァン・カトリック大学に留学しています。早いもので、こちらでの生活も半年余りになります。今回は、まず、私の派遣されているルーヴァン・ラ・ヌーヴという一風変わった街の紹介をし、続いてベルギーでの学生生活、最後にこちらのロータリークラブについてご報告させて頂きます。

【学園都市、ルーヴァン・ラ・ヌーヴ】
私が今暮らしているルーヴァン・ラ・ヌーヴは、少し特殊な街です。街の名前をあえて訳すと「ルーヴァン新町」といったところでしょうか。首都ブリュッセルから、南東に在来線で一時間ほど走った場所に位置する、人口二万人弱(2008 年12 月)の小さな街です。ここルーヴァン・ラ・ヌーヴから、電車で一時間北東に進むとルーヴァンという別の街があるのですが、ここに1425 年に創立されたルーヴァ
ン・カトリック大学が、ベルギーの言語闘争により、1968 年にフランス語を使う部門とフラマン語を使う部門で分離することになり、そのフランス語部門が新たに森を切り開いて造った街がルーヴァン・ラ・ヌーヴです。なので、街の周りには本当に森しかありません。唯一の映画館も2年前に閉鎖され、娯楽施設があまりないところは昔のつくばのイメージを彷彿とさせるかもしれませんが、朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、お天気のいい日は森での散策を楽しみ、夜は静寂の中で星空を眺めるここでの生活を、私はとても気に入っています。

【ベルギーでの学生生活】
私は、ロマンス語・ロマンス文学およびフランス語・フランス文学研究科修士課程2年目に在籍し、20世紀フランス文学を中心とする勉強を進めています。2年目からの編入のため、取得しなければならない単位も多く(年間60単位)、並行して修士論文のための研究もしており、充実した毎日です。一学年に100名ほどの学生が在籍しており、その中で留学生は中国人一人と私だけであるため、授業や課題は現地学生とほぼ同じようにこなす必要があり、勉強はかなりハードです。しかし、現地の学生はみな親切で、インターネット上の掲示板に有志の学生を中心として授業ノートを公開してくれたり、質問を受け付けてくれたりするので、とても助かっています。ベルギーの大学では隣国フランスと比べても成績評価が厳しいようで、その分学生も非常に熱心に勉強していて、留学には最適の環境です。試験

期間は年間で3回あり、好きな時期に試験を受けることができますが、日本のように簡単に授業を放棄することはできず、全ての科目に試験が課せられます。試験勉強の仕方も、日本のやり方では通用しません。なぜなら、筆記試験はたいていその場で問題を与えられて4時間ほどの時間をかけてフランス語で小論文を書く試験であり、口頭試験ではあらゆる角度からの質問に論理立てて答えなければならない
からです。なので、勉強したことを暗記することは準備の最低条件で、それをいかに自分で組み立て直して、新たな考えを加えられるかが問われます。そのため、試験範囲を分担して勉強会をする等、学生たちも工夫して試験勉強をしています。

同級生とともに

同級生とともに

同級生

同級生

ベルギービールを片手にゲームに興じる学生たち

ベルギービールを片手にゲームに興じる学生たち

【ルーヴァン・ラ・ヌーヴのロータリークラブ】
このような多忙な学生生活ではありますが、こちらでの私の受け入れクラブであるルーヴァン・ラ・ヌーヴクラブのみなさんには本当にお世話になっており、クラブの集まり等にも招待して下さるため、学生文化とはまた違ったベルギーの側面を学ぶことができます。先日、2010 年3月13日には、ルーヴァン・ラ・ヌーヴクラブの創立10周年のパーティーに招待して頂きました。このクラブはまだ若いクラブであり、ロータリアンの方々も50代前半くらいの方が中心で、男女の比率が半々の珍しいクラブです。このような活気あふれるクラブですから、パーティーも大変盛り上がりました。特に、私のこちらでの顧問ロータリアンであるブノワ・デルクール氏が、これまでに受け入れた日本人奨学生たちをユーモアたっぷりに紹介して下さいました。ブノワさんは、日本人奨学生受け入れのエキスパートと常日頃自称されているのですが、それはこのクラブが創立当初から国際親善奨学生を受け入れており、ブノワさんが受け入れを担当した学生を数えると私ですでに7人目の日本人奨学生だからであり、受け入れたのがほぼ全員女性、分野はフランス文学か語学、研究テーマもそれぞれ難解そうだったらしく、それがブノワさんには面白く映るようでした。

以上、簡単ではありますが、留学の途中経過のご報告とさせて頂きます。私の留学にお力添えを下さいました全ての方々への感謝を忘れず、残りの日々も充実した毎日となるよう、努力していきたいと思っています。

ロータリーD2170地区大会にて、後列左端が顧問ロータリアンのブノワ・デルクール氏、前列左から二番目が本人

ロータリーD2170地区大会にて、後列左端が顧問ロータリアンのブノワ・デルクール氏、前列左から二番目が本人

[学友便り] 借りてはいけない本

- 12:21 AM

2003-2004年度GSEメンバー 小笠原 靖

最近、よく図書館に通っています。元々活字を読むのは苦にならず、書店に入って、面白そうな本をぱらぱらとめくるのが好きでした。しかし、保管場所と経済的な理由から、最近は購入からレンタルに変わってきました。

私の行く図書館では、一度に8冊借りることができます。貸し出し期間は最長2週間ですが、予約が入っていなければ、手続きをして更に延長して借りることができます。私は、大概上限いっぱい8冊借りて、帰宅してから少し読み、面白ければ読み進め、そうでなければ返却します。この自由さも図書館の魅力です。

さて、図書館をよく利用するようになってから、新聞やラジオの「書籍紹介」を、以前より興味深く見聞きするようになりました。

ところが、私の自由な図書館利用について考えさせられるラジオ放送を聴いたのです。3月2日(火)NHKラジオ「ビジネス展望」にて、評論家:内橋克人さんが、「心打たれた一冊の本」として紹介していたのは、『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る ~アフガンとの約束(著:中村哲、澤地久枝)』でした。

放送の要旨は、「私の心に深く響いた一冊の本」。日本人ならば誰でも知っている二人が語り合い、対談と対談の間に歴史的事実が淡々とした叙述で挟まれている。時にウィットを交えた分かりやすい対話、しかし背景に、あまりにも過酷な世界の現実、歴史の流れがあることが、読む人の心に染みとおる・・・

中村哲さんは、今も戦乱と旱魃の中にあるアフガンに踏みとどまり、苦闘は既に25年になる。一体何故、一人の日本人医師が、遠いアフガニスタンでそこまでおやりになるのか。その答えがタイトル『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』に表されている。そして、サブタイトル『アフガンとの約束』が、全てを語りつくされている様に感じる。・・・

作家である澤地さんが、何かお役に立ちたい、と思案の末、行き着いたのが、中村先生の本を作って、(そしてこれが難しいのだが)よく売れるよう努め、印税によって若干なりとも助ける。印税は全て捧げられるそうです。・・・」

短い放送時間でしたが、語り手である内橋克人さんの話に引き込まれ、一冊ですが購入することにしました。

さて、学生時代を振り返ると、書店で本を買うときは、よく吟味した上で「よし、買おう!」と「決断」をしていました。この「決断」は、ちょっと大げさに言えば、著者の思いに共感できた瞬間、だと思います。図書館で自由に本を借りることで、一冊一冊に込められた著者の思いを軽く扱っていたのかもしれない、そんなことを考えさせられた「借りてはいけない本(購入したい本)」との出会いでした。

[学友便り]国連事務局内の人事異動

- 12:00 AM

1993-1994年度奨学生 遠藤 公美代

10年間のジュネーブでのUNCTAD勤務を経て、昨年8月半ばからニューヨークの国連本部勤務になった。一般的な印象に反し、国連事務局組織で働く私たち正規国連職員の間では、勤務地の変更を伴う異動は、大規模な組織改革に伴う所属部署の移転以外には、自ら希望しない限りありえない。それというのも、国連事務局の人事部は、定期的に組織内の職員の異動を行なう権限を持っていないので、日本の会社員や公務員のように、ある日、上司から呼び出され、「来月1日付けで、○○勤務の辞令が出るから」と言い渡されることもない。

また、昇進に関しても、公募に出た1つ上のレベルのポストに応募し、書類選考、面接の結果、そのポストに採用されなければ、いつまでたっても起こらない。つまり、極端な場合、一度、組織に入ると、定年まで、ずっと同じポストにいて、昇進も異動もしたことがないという職員がいても不思議ではない。

更に、私のように、昇進でもないのに、ジュネーブから、わざわざ生活条件の悪いニューヨークへと自発的に動く職員も珍しい。家族持ちの職員は、子供のことを考えると、ニューヨークには、絶対住みたくないし、独身職員にしても、職場に近いマンハッタンに住むとなると、高額な家賃のせいで、経済的に苦しくなるし、ジュネーブと同じ位の家賃で収まる物件となると1時間の通勤を強いられる。したがって、ジュネーブ勤務の職員は、仕事の面で、よほどのメリットがない限り、ニューヨークへのポストには応募しない。

そんな国連事務局内の停滞する人事の改革の一環として、2000年に入ってすぐに、事務局人事部は、2007年以降、同じポストには最長5年までしかいられない規則の導入と、管理職のP5(専門職の一番上のランク)とD1ポストに応募するには、その前に2回以上異動していることを条件に加えると発表。当然のことながら、それまで強制的に異動をさせられたことのない職員のほとんどが動揺し、ジュネーブでは職員組合を先頭に、この動きを阻止する抵抗を始めた。

2000年以降に採用された専門職の一番下のランクにあたるP2には、すでに強制異動が義務付けられ、最初の2年の試用期間後、正規職員契約への切り替え前に、自発的に異動先を探すか、人事部が年1回施行するプログラムに沿って、勤務地の変わる異動をするのが定着していた。前者の自発的異動というのは、自分で組織内の空きポストを探し、そのポストの所属長に自分を売り込み、了承を得られれば、異動が可能になる。また、後者のプログラムにしても、強制とは言えども、転勤先のポストを選ぶ自由は与えられている。

けれども、このP2対象の規則は、2000年前に採用されたP2には適用されておらず、私と同じ1999年にUNCTADに入ったP2の中には、10年たった今でも、昇進の機会に恵まれず、同じポストに居座ったままの同僚がいる。加えて、この規則は、一度異動した後、2年たったらまた動かなければいけないというものではない。従って、例えば、20044月に入ったP2は、20061月に自発的異動をすれば、2008年に再び異動する義務はない。

事務局人事部は、2005年前半、このP2の異動プログラムの「成功」を追い風に、2007年に予定されている第一回の強制異動に先駆けて、自発的に異動したいというP3からP5までの職員を対象に、似たような職種-例えば、私の場合には「経済職」-に就いている、同じレベル-私の場合には、専門職の下から2番目のランクのP3-の職員間での(同じ組織内と勤務地内も含んだ)異動を促進するプログラムを実施した。だが、興味を示した職員は多かったものの、結果としては、応募者の選考、面接に数ヶ月を費やしたにもかかわらず、実際に異動できた職員は一人もいなかった。

これには、三つの理由が考えられる。まず、一つ目は、最初に異動の希望を表明しても、このプログラムに出された自分以外のポストの中に、自分が異動したい、あるいは異動できそうなポストがないという理由で、参加を取り消した職員が半数以上いたこと。二つ目は、このプログラムでは、自分の希望するポストが複数あれば、そのポストに全てに応募をすることが可能だが、通常の公募をかけた空きポストの選考と同じように、書類選考の後、希望者は受け入れ先の上司から面接を受け、採用されなければならないこと。つまり、いくら自分が動きたくても、受け入れ先の上司から、そのポストに必要とされる専門性、職歴、適性がないと見なされたら異動は実現しないということ。そして三つ目は、たとえ希望していたポストに採用されたとしても、同時に、そのポストに就いている職員の受け入れ先が決まらなければ、異動は実現しないこと。つまり、一人の職員が動くためには、二人以上の職員の異動が不可欠で、この条件をクリアーするには、11のスワップならまだしも、何十人もの職員が関わっている場合には、不可能に近い。

また、二つ目の理由にあげた専門性について、もう少し説明を加えれば、専門職の一番下のランクのP2と違い、事務局内の各組織あるいは、同じ組織内でも各部署特有の専門性の重視度は、P3からP4P5に上がるにつれ、高くなるのが常識だ。これは、昇進の際にも言えることで、人事部が推進する組織内、勤務地を変わる異動によって得られる多様性とは一致しない。強制異動に反対する職員は、強制異動によって失われる各組織特有の専門性は、事務局内組織の効率性を著しく下げるものであると懸念する。

日本の組織と違い、国連内では、専門職、管理職が異動、退職する際、「引継ぎ」なるものがなく、前任者は、後任者のためにと、それまでやっていた仕事の情報を残すことがない。従って、後任者は、全くの白紙の状態から仕事を始めるので、一定の流れ、関連部署、外部組織とのネットワークを築くのに時間がかかり、当然ながら最初の数ヶ月、あるいは、数年間、仕事の効率、質が低下する。

更には、「経済職」の場合、同じ組織内でも、自分が所属している部署外のP3以上のポストには、非常に狭い分野での専門性が要求されている。例えば、UNCTADの経済職のポストは、私が担当していた「投資」以外のポストとなると、私が応募条件を満たせるものは、ほとんどない。具体的には「貿易」なら、その中でも、更に細分化された「WTO交渉」や「競争政策」の知識と職歴等の、そのポストが属するユニットや課が担当する問題の専門性が要求される。更に、UNCTAD以外の組織で途上国にある、例えばESCAPのような地域委員会になると、「貿易」の中でも、その地域特有の知識や、その地域での「技術協力」の職務経験などの条件が加わってくる。よって、これが、昇進の機会に恵まれない専門職の、動きたくても動けない代表的な言い訳になっているのだ。

強制異動プログラムは、予定通り、2年の移行期間をかけ、20075月から、5年の期限を過ぎた職員を対象に実施された。UNCTAD の人事課は、2006年当初、この第一回の異動の対象となる職員数は、100人に及ぶと発表したが、実際に組織内外を含め、正式なルートで異動した職員は数人にすぎなかった。それ以降も、毎年、5年の期限を過ぎた職員が出てきているはずなのだが、人事から「動け」と言われた職員は、6年以上過ぎた私を含め、誰もいないと思う。従って、管理職を含め、多くの職員が「強制異動はなくなった」と思い込むに至っている。

こうしてあやふやになってしまった強制異動の中、2008年後半には、人事部は、2010年から管理職のP5D1ポストの異動に関する応募資格を更に厳しくし、P5になるには、勤務地を変わる異動を2回以上していること、そして、D1になるには、途上国の中でもより生活が厳しいとされる勤務地での1年以上の勤務経験を条件に加えると発表し、ジュネーブとニューヨークの職員組合は猛反発。結局、この提案は、予算に関する懸念もあり、2009年末、総会での決議は見送られた。管理職への昇進を目指す先進国勤務の職員の多くは、胸を撫でおろしたはずだ。

一方、人事部は、2009年前半、第二回目の自発的異動促進プログラムを実施した。前回との大きな違いは、組織内の管理職(P5 D1)の中から、窓口を一人ないし二人、組織長が任命し、人事部主導で、希望者のマッチングを行った後、該当する受け入れ組織の窓口に応募書類を提出。その窓口が、書類選考を行い、受け入れ先の部署長に候補者のリストを提示し、必要があれば、面接をするという選考方法になった。また、先進国勤務の職員と、途上国勤務の職員との間での異動促進を目標として、関係者全員が合意すれば、異動は、1年、もしくは2年の期限付きで、もとの職場に戻って来る事も可能になった。それでも、私の参加したP3経済職のプログラムでは、前回同様、ポストの半数以上は、タイにあるESCAPか、エチオピアに本部をおくECAに所属するもので、ジュネーブやニューヨークに勤務する職員の勤務地を伴う異動に対する消極的姿勢に変化はなかった。

今回、私がニューヨークに動けたのは、決して、この異動促進プログラムの仕組みが改善されたからではなく、応募書類提出前に、私と先方のP3が、お互いのポストを「スワップ」する話し合いをしたからにつきる。たまたま、ニューヨーク勤務の同期の日本人の同僚を介して、私が興味を持ったポストの内の1つに就くモンゴル人が、私のポストに大変興味を持っていると聞いた。その後のメールのやり取りで、このスワップの実現の可能性を高めるために、他のポストには、一切応募せず、互いのポストだけに応募書類を提出することで合意はした。けれども、他に応募者がいた場合、互いの上司が私たちを選ぶ保証はないので、思惑通りにこのスワップが実現する可能性は低いと思っていた。書類提出後、モンゴル人の同僚のところには、人事部から他のポストにも応募しろと電話がかかってきたが、彼はジュネーブの私のポスト以外には興味がない、と言って応じなかったらしい。

そして、1ヶ月半後、私たちは、互いの上司から面接を受けることもなく、人事部の担当者から内示の連絡を受け、異動の条件について人事部の担当者を通して話し合いに入った。先方は、私の希望する「通常の異動」ではなく、1年、もしくは2年の期限付きのスワップを主張してきて、「それなら異動はしない」とすねたくなったが、結局、2年間のスワップで合意した。また、5月に出た人事部からの正式通知では、7月末に異動を完了するようにとの指示があり、自分としては、6月中に異動したかったのだが、先方は、7月に1ヶ月休暇を取るので、自分がジュネーブに赴任できるのは、早くて8月初旬になると言われ、この点でも、相手に譲り、815日付けの異動で合意せざるを得なかった。この間、一切、上司から口を挟まれることはなく、いかに、国連の正規ポストが私物化されているかが明らかになった。

こうして、ジュネーブからニューヨークに引越してきて半年以上になるが、昨年の7月半ばに引越しの準備を始めて以来、ジュネーブから動きたがらない同僚の理論が正しいことを痛感する日々であり、今となっては、相手方が主張した二年という期限付き条件が、非常にありがたい。思えば、競争試験に合格し、UNCTADからポストのオファーをもらうまでは、「国連で働けるなら、アフリカでも、どこでも行ってやる!」と意気込んでいたのに、10年のジュネーブ勤務ですっかり甘やかされ、その可能性すらも考えなくなってしまった。世界の途上国には、日常生活に必要な最低限の物をそろえるのでさえ容易でない人々が、まだまだ、たくさんいるというのに、自分の都合や生活面での快適さを躊躇することなく優先してしまうのは、国際公務員として、誠に恥ずかしい限りである。

[学友便り]一期一会

2010 年 4 月 17 日 - 11:54 PM

1997-1998年度 GSEメンバー 原田 芳春

2009年7月6日午前10時、天候曇、St.アンドリュース・オールドコースのトム・モーリス・プロショップ前にレンタカーを止めました。今回のスコットランドへの旅では、「ゴルフの聖地巡礼一人旅」をテーマに6つのリンクスコースを巡りましたが、ここだけはインターネットでの予約が取れませんでしたので、早速、クラブハウス前にあるスターター・ハウスに行ってキャンセル待ちの列の最後尾に付きました。気候や運営システムの違いでしょうか、クラブハウスは文字通りメンバーのための施設になっていまして、ビジターは予約のあるなしに関らず、ロッカーとかシャワー室等を特に借りたいというのでなければ、直接スターター・ハウスに行ってグリーン・フィーやバッグを載せて運ぶローリーの使用料を前支払いし、プロショップでボールなどを購入してからスタートするわけですが、驚いたことにキャンセル待ちの半分位は日本人のグループでした。東京の川崎さんという方のグループは、「ホテルに泊まってキャンセルを待ち今日で三日目ですよ。」

私は、次の日に200キロ南のイングランドとの境界付近にあるダンフリースのゴルフ場に予約が取れていまして、地元のメンバーが私を待っていてくれますから、一刻も猶予はなりません。意を決して、あの荘厳なクラブハウスに飛び込みました。案の定、門前払いでした。私は、「オールドコースでのプレーを夢見てたった一人でこのバッグを担いで日本からやって来ました。このまま帰る訳にはいきません。私のこの長年の夢を叶えるべく是非ともご再考を賜りたい。」と少し持って回った言い方をして訴えました。受付の方の名前はよく見えませんでしたがファーストネームはジョージでした。少し困った顔を見せましたが、「少し待って下さい。」と奥に入ったきり10分くらい待たされました。「合衆国から来たパーティーに一人空きができました。ハンディキャップ証明書を見せて下さい。」と言われて「やったー!」と思いましたが、私の喜ぶ顔を見て、すごい皮肉を言うものです。「今日は、St.アンドリュースにとって記念すべき日です。2万キロの彼方からハンディ16のゴルファーがたった一人でやって来るとは!」私が流石にムッとして、「ホームページには20以下となっているではないですか」と言いますと、「あれは商業上の理由です。」とあっけなく交わされました。要するに大手旅行会社が予約枠を買占めていると言われるパックツアーであればハンディキャップなど関係ないということなのでしょうか。

それにしても、このジョージという人に出会わなければ、ここでのプレーは実現できなかったように思います。「失礼ながらハンディ16では進行上問題がありそうなので当方でキャディを付けますが、バッグは自分で運んで下さい。ラフでのボール探しはルール上5分ですが、この時期は2分です。コースではマーシャルがチェックしています。違反者には直ぐコースアウトして頂きます。グリーンフィーの128ポンドをスターター・ハウスで支払って下さい。」日本円で約1万8千円ですから、私が「他の名門コースより2倍以上高いんですね」と言うと、「アメリカ人が値を吊上げてしまった。」という言い方でした。

直ぐに、よく写真で見る1番ティーグランドに案内されパートナーに紹介されましたが、そこで私が仲間に入れて貰えた訳が分かりました。片山晋吾プロのお陰でした。ジョージア州からやって来た人達で、地元のオーガスタで開催されたマスターズで片山選手が4位になり、そのプレー振りが多くのギャラリーに感動を与えたようです。日本のゴルファーが大いに見直された様子でした。「しかし、私は典型的なアベレージゴルファーです。ヨシと呼んで下さい。」と自己紹介をしました。付いてくれたキャデイーさんはピーター・ミラー氏72歳。ここでちょっとしたトラブルがありました。1番ホールティーグランドは広く平らで誰でも近づくことが可能です。スターター・ハウス前でキャンセル待ちをしていた日本人が走って来て「最後尾にいたあなたがどうしてここに居るんだ!」と険悪な雰囲気になりました。私は、「パートナーが待っていますので失礼します。」と言いながらティーグランドに向かいました。

それこそ、記念すべき第一打です。しかも、多くの観光客が見ている前です。自分では快心の当りと思いましたが、キャディさんは、「ヨシの球はコスリ球だよ。」たった一回のショット見て全て判ってしまうスゴイ人だと思いました。普通の日本語は話せませんが、プレーに必要な日本語は正確です。2打地点に着くと「あと168!」とか、グリーン上では私のパターフェースをよく見ていて「少し左」というようにハッキリ教えてくれます。日本のプロに付くことが多いということでしたから、この5日後200キロ離れたターンベリーからここに練習にやって来た石川遼選手に付いたのは、案外この人かも知れません。因みに、今年の全英オープンはここで開催されるそうですから、皆様がテレビで観戦をされる場合など、私の話が少しは参考になるかも知れません。

第二打は、当り損ねでクリークに入りました。リンクスコースでのクリークはバーンというのだそうです。とてもそこまで届くようなボールではありませんでしたが、フェアウエイは弾力があって硬く、ボールが何処までも転がって行ってしまう様な感じで、これがリンクスコースの実に厄介な点でした。2番以降の多くのホールでバンカーに入りましたが、要するにロングアイアンで高いボールで、しっかりとした決め打ちが出来ないと転がって行ってラフかハザードに入るように出来ています。結局、1番は4オン2パットでダボ発進となりました。

2番ホールに来てクラブハウスで言われたことの意味をやっと理解できました。ハンディ16のゴルファーが来る所ではないということを。そして、このキャディさんを付けてくれたSt.アンドリュースの配慮に胸が熱くなりました。ティーグランドから見て何処からがフェアウエイなのか分からないほどラフとブッシュが入り組んでいます。キャディさんは、「ヨシのボールは飛ばないからブッシュに入っても直ぐに探せるよ。200ヤード飛べば良いのだから思い切って振り切りなさい。」幸い、チョロだけは一度も打たなかったので、ブッシュに入った殆どのボールを直ぐに見つけてくれました。2番ホールのバンカーで2回失敗し3回目のアドレスに入ろうとした時ストップが掛かりました。「それではトミーの記録を更新してしまう。フェースの開きはそれで良いから、ヘッドスピードを落として砂を薄く取りなさい。」ボールは殆ど真上に飛び上がって、やっとあの蛸壺バンカーからの脱出に成功しました。5番ホールのバンカーに入った時、「記念写真を撮るから腰に付けてるカメラを」と言ってデジカメのシャッターを押してくれました。

ところで、全英オープンが開催されたターンベリーで池田勇太選手に出会った話を後述させて頂きますが、私が訪ねた同ゴルフクラブの玄関で、「本日、石川はいないけれども、Another young guy つまり、もう一人の若い衆が居るから会っていったらどうですか?」と言われました。池田選手は、まだ名前すら知られていなかった訳です。中嶋常幸プロは、「トミー」という愛称まで貰ったのですから大したものです。1978年の全英オープン最終日最終組で17番ホールのバンカーにつかまり、8つ打って敗れた、そのバンカーは、今尚「トミーズ・バンカー」と呼ばれて観光名所の一つになっていました。幸か、不幸か、私のボールはそのバンカーには入りませんでしたが、結局この5番ホールのスコアは3オン1パットで、18ホール中5つしか取れなかった数少ないパーの一つとなりました。そして、この写真は上手く撮れていましたので、報告書の表紙に使わせて貰いました。

私にとって、このキャディさんにめぐり会えたことで、St.アンドリュースが忘れ得ない思い出となりました。最初に言われたコスリ球は、どうしたら直るのか、未だに解決していませんが、彼の表現は実にユニークで素人に解り易いものでした。Leave your club behind in its top position. ダウンに入る瞬間、「クラブをトップの位置に置き忘れて来なさい。」そして、マーカーのペンさんがアテストしてくれたスコアカードは額に入れたバンカーショットの写真の裏に挟んで保管することに致しました。バンカーに何度もつかまったことを思えば97は仕方ない数字と思っています。マーカーのペンさんが94。あとの二人はドライバーが真直ぐに飛ぶのに、飛びすぎてラフに入りロストボールが多過ぎて、結局100を切ることができませんでした。

こうして4つ目の巡礼先St.アンドリュース・オールドコースを後にし、イングランドとの国境近くのダンフリースGC、南西海岸のポートパトリック・ダンスキーGCを経て7月11日早朝、いよいよ14日から始まる全英オープンの会場ターンベリーの南20キロ地点にあるリンスオブギャロウエーというB/Bにチェックイン。B/Bと言いますのは、ベッドと朝食のみを提供してくれる格安の宿のことですが、前の晩のニュースでBBCが石川遼君にインタビューしているのを見ましたので、ターンベリーホテルに電話を入れて、今日も練習するのかどうか確認をしようとしましたが、「済みません、個人情報につきお答えできません。」でした。そりゃそうだ。と納得し、兎にかく行ってみることにしました。その時点では、石川選手以外に誰が来ているのか、全く知りませんでした。

早くも午前8時にチェックアウトしてターンベリーに向かいました。今日中にエジンバラに着けばOKとはいえ、距離は200キロ、道筋にも自信がないため早く出ました。ターンベリーの町は「ジ・オープン」一色で歓迎の看板が目立ちました。クラブの正面入り口で交通整理が行われていて、関係者以外は一般駐車場へ誘導されていました。私の番になると「石川は昨日までいたが、今日はセントアンドリュースへ練習に出掛けて居ない。もう一人の若い衆が居るので会っていったらどうですか?」と言う。そして、クラブ正面玄関横の駐車場に止めるように言われ、大会役員が、練習ラウンドに出ようとしていた池田勇太選手の所へ案内してくれました。彼は、「23年の内にトッププロになります。日本に帰ってからも応援をお願いします。」と帽子を取って挨拶をしてくれました。実に好感の持てる選手です。少なくとも予戦通過を願わずにはいられませんでした。「見て行くんでしょう?」、「いや、家の法事があるので明日帰国します。St.アンドリュースや色々なコースを回ってきました。昨日、隣のコースでプレーし、今からエジンバラへ向かいます。じゃあ、頑張ってくださいね。」と言って握手をして別れました。午後4時半、最初に泊まったエジンバラのB/Bネザビー・ハウスに無事着き、今回の旅の全日程を終えてホットしました。

7月12日14:00 レンタカー・ハーツ社に車を返し、15:00: エジンバラ空港チェックイン。出発迄に時間がありましたので、携帯電話でお世話になった方々にお礼とお別れの挨拶をしました。17:15 エジンバラ空港離陸、帰国の途に就き、14日昼頃、出発地富士山静岡空港に帰ってまいりました。

後日談になりますが、帰って間も無く福岡で行われたKBCオーガスタで池田選手が優勝したのをテレビで見まして、直ぐに、「優勝おめでとう。ターンベリーで出会った焼津の原田です。まだ、覚えていますか。」とハガキに書いて東京虎ノ門にありますプロゴルフ協会気付で出しました。暫くして本人からハガキが届き、「おハガキ有難うございました。原田さんのこと良く覚えています。もちろん。」とありました。彼が「もちろん」と付け加えたいきさつを少しお話させて頂きますと、あの日の朝、多くの報道関係者と全英観戦ツアーのギャラリーが皆、石川遼選手に付いてSt.アンドリュースへ行ってしまい、ターンベリーを訪ねたのは私の他に見当たりませんでした。プロの練習ラウンドに素人が付いていて良いのか、どうか分かりませんでしたが、本人は嬉しかったのか。「いてくれていいですよ。」という言葉を私が真に受けただけでなく、20ヤードのアプローチショットでターフが取れるのが不思議で、私が「もう一度、打ってみて」と言うと、黙って何度も打って見せてくれました。彼の練習ラウンドで素人に言われて何発も打つことなど後にも先にもなかったことかも知れません。コーチの、如何にも迷惑そうな目が気になり、私が、「そろそろ帰ります。」と言いますと、彼は、帽子を取って丁寧に挨拶をしてくれました。

今回の旅は、自分の経験を総動員して、又、現地の多くの親切な皆様の助けを借り、お蔭様で実に密度の高い時間を過ごすことができました。リンクスに身を置いていると、海からの強い風が、60代後半に入って衰え始めた心身に活を入れ、元気をくれた思いが致します。感謝、感激の旅でした。

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